岐阜公園にある板垣退助遭難の地。「板垣死すとも自由は死せず!」

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岐阜市の岐阜公園の中に立っている銅像、誰かご存知でしょうか。

板垣退助(1837-1919)元々は土佐藩の武士で明治維新の後は政治家に。

自由民権運動の主導者。

帝国議会(国会)や現在の自民党の源流となる愛国公党、自由党の創始者。

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 松尾一監修の『岐阜「地理・地名・地図」の謎』の中に、岐阜遭難事件に関する説明があったので一部引用します。

1882(明治15)年4月6日の夕方、金華山にある中教院という神道を布教するための建物において、演説を終えた板垣は突如、刃物を持った刺客に襲撃される。板垣に切りかかったのは、愛知県で小学校教員を務めていた元士族の相原尚褧。理由は明らかではないが、平民が政治を動かすことを目的とした自由民権運動によって、武士の権利が完全に失われてしまうのを恐れたからだと言われている。

板垣は何度も刺されたが致命傷を免れた。「遭難」とはもともと、命の危険にさらされることをいう。そのため、この事件は「岐阜遭難事件」や「岐阜事件」と呼ばれる。このとき、「板垣死すとも自由は死せず!」と口にしたという。しかし、これは誤りらしい。負傷して倒れた際に板垣が口走った言葉を、周りの者がそう解釈したらしい。

名言「板垣死すとも自由は死せず!」は実際は言ってなかったようですが、当時、自由民権運動を扱った芝居があちこちで上演され、世間に広まっていったそうです。

もしこの時板垣が亡くなっていたら、その後の日本の政治体制はどうなっていたのでしょう。

そんな日本の政治を左右していたかもしれない事件が岐阜公園の中で起きていたのです。

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