岐阜市則武新田にある『尉殿堤記念碑』

岐阜市則武新田。

現在は道路が綺麗になり、小綺麗な住宅やお店が並ぶエリア。

則武新田区画整理事業は昭和26年から構想がありました。

2000年(平成12年)に組合が結成され、工事が完了したのが2021年(令和3年)

地主の反対などで完了まで大変だったようです。

以前に“呪われた三角地”等の看板を立てての抗議活動も見たことがあります。

区画整理事業記念碑の隣にあるのが則武新田天満宮。

天満宮の中にあるのが「尉殿堤(じょうどのつつみ)記念碑」

長良川は以前は、井川(長良川)、古川、古々川の3本に分流していました。

記念碑のある辺りは古川、古々川の分流地点。

当時はしょっちゅう川が氾濫していたようです。

1600年代にこの水害をなんとかしようと立ち上がったのが、黒野城主・加藤貞泰。

古々川を締め切る工事に取り掛かります。

 

各村から人々が集まり築堤を始めたが、加納藩主奥平信昌に知られ、築堤を中止せざるを得なくなった。さらに、信昌の妻で徳川家康の長女である亀姫の逆鱗に触れたため、貞泰は転封を命じられたという。

(看板の説明より)

 

亀姫は化粧料である近ノ島が水浸しになったことが気に食わなかったようです。

大河ドラマ「どうする家康」ではかわいらしいイメージですが、今後はどう変わっていくやら。

 

1608年(慶長13年)に古川の北岸に「尉殿堤」が完成。

貞泰は1610年(慶長15年)に米子へ転封。

1611年(慶長16年)に洪水により尉殿堤の一部が消滅。

亀姫により転封させられてなければ、すぐに復旧工事に取りかかったことでしょう。

 

1939年(昭和14年)長良橋下流で古川締め切り工事が完了。

1940年(昭和15年)尉殿堤記念碑が建立。

別の場所にあった記念碑は2015年(平成27年)に解体され、2019年(令和元年)に移設再建。

三川の分流に300年以上かかってます。

令和5年5月7日に、ぎふメディアコスモスみんなのホールで上演された紙芝居「尉殿堤」より。

工事の策を思案する加藤貞泰。

今年は加藤貞泰の没後400年となります。

尉殿堤の存在は、この時の紙芝居で知りました。

 

薩摩藩士、ヨハネス・デレーケのことを知っている方は多いでしょう。

貞泰は岐阜市端詰町生まれ。

長良川の水害と戦ってきた人物として加藤貞泰の存在も知ってもらいたい。

yama300.info

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