2023年は黒野城主・加藤貞泰の没後400年。
関ヶ原町にある「岡山烽火場」へ行ってきました。
一般的には、1600年(慶長5年)9月15日に起きた関ヶ原の戦いの時に、東軍の黒田長政と竹中重門が布陣した場所として有名。
ここでは加藤貞泰も布陣。
烽火場へ向かう道中の電柱にも案内が表示されてます。
竹中重門の正室は光泰の娘。
貞泰にとって重門は義理のお兄さんになります。
戦が迫る9月3日には、徳川家康から竹中重門、加藤貞泰宛てに書状が届きます。
前から打ち合わせていた通り、忠節を尽くしておられることを大変うれしく思います。今日3日、小田原へ向けて出馬しました。急ぎそちらへ着陣することとします。あなた方も、いよいよ精を入れ働かれることが大切です。
(現代語訳)
8月23日の岐阜城の戦いの時は、貞泰は岐阜城主・織田信秀(西軍)の指揮下にありました。
石田三成への恨みもあり、義兄の重門と共に家康に味方するつもりだったようです。
筆まめな家康。
家康のライティングスキルが天下分け目の戦を勝利へと導きます。
書状の現物は、岐阜関ヶ原古戦場記念館の特別展示コーナーに展示されています。
古文書なので判読不能でしたが。
興味のある方はぜひ。
細い坂道を上っていくと駐車場がありました(5台)
竹林の道を歩きます。
岡山烽火場。
東軍は「魚鱗の陣」
相手を一気に崩す攻撃的な陣形。
烽火場から正面中央に見える山は松尾山。
小早川秀秋が布陣。
小早川秀秋を調略したのが黒田長政。
長政はこの合戦の大功労者。
加藤貞泰ののぼりも立ってました。
加藤氏の家紋がここで見られてうれしかったです。
貞泰推しの方は巡礼しておきましょう。