1945年(昭和20年)7月9日に起きた『岐阜空襲』今も残る戦災遺跡。

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問屋街の地下道に掲載されている写真。
空襲で焼け野原になった岐阜駅周辺の写真です。

1945年(昭和20年)7月9日の午後11時ごろに米軍による空襲が行われました。

『岐阜空襲』です。

総務省のホームページに「岐阜市における戦災の状況」が記載されてました。

一部引用します。

空襲は数時間続き、約130機のB29が参加し、1万発以上の収束焼夷弾と焼夷弾が投下された。

空襲の目標点として、市街地の中心出会った徹明通りと金華橋通りの交差する地点が設定されたため、街はまたたく間に火の海となり、多くの建物が焼け、約900人もの市民が犠牲となった。 

みなが寝静まる夜中に1万発以上の焼夷弾。

当時書かれた日記には“空からは天の川の星が一度に落ちてくるかと思うほど焼夷弾が落ちてくる”と記述も。

アメリカ軍による非人道的で卑劣な空襲。

罪のない民間人を無差別攻撃することは国際法違反。

戦争で勝ったアメリカは何の罪に問われることがありませんでした。

 

岐阜市平和資料室友の会と岐阜県歴史教育者協議会により編集された『岐阜も「戦場」だった』の中に、今も残る戦災遺跡が掲載されてました。

その中でいくつか実際に足を運んでみました。

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【鏡島弘法乙津寺】

本堂、大師堂、庫裡、宝蔵、鐘楼、山門、勅使門などすべての建物を焼失。

重要文化財の十一面観世音菩薩像は、住職と信徒と駐屯していた高射砲部隊の兵士が協力して、火の粉をかぶりながら運び出したと伝えられます。

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「南無大使遍照金剛」と彫られた石柱に残る深い亀裂。

空襲時の火災の強さが想像されます。

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【美江寺観音】

重要文化財の等身大十一面観世音菩薩像は、燃えさかる本堂から運び出され、水を注ぎかけて守り通されました。

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石灯籠の下部に剥落と亀裂が見られます。

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梅林公園の一角にある『平和祈念像』

もんぺ姿で右手を空にかざす等身大の女子挺身隊を再現した像。

愛知県豊川市の豊川海軍工廠は当時日本最大の軍需工場で約6万人が働いていました。

岐阜県内からも16歳から20歳までの女子挺身隊をはじめ、軍属や徴用工など約1000人が動員。

岐阜空襲により県内出身者93人が亡くなりました。

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自分はもちろん、両親も戦後生まれ。

周りに戦争当時のことを知り語る人はいません。

広島、長崎のことは学校の授業でもしっかり学んだ記憶はありますが、岐阜空襲のことは覚えてません。

岐阜市も戦争の大きな被害を受け、焼け野原から復興してきた歴史があることを忘れてはなりません。

7月9日は空襲で亡くなった方の冥福を祈り、平和を祈念しましょう。