可児市にある「美濃金山城跡」へ行ってきました。
国史跡で森蘭丸とも深いゆかりのある城跡。
第一駐車場から登り始めました。
駐車場広めでトイレもありました。
他にもいくつか駐車場あります。
第一駐車場から美濃金山城跡本丸まで約30分。
小登山にもぴったり。
いろいろ史跡が残っているようです。
北側にある「米蔵跡」も気になります。
とりあえず本丸目指して前進。
戦国時代の雰囲気の残る登山道。
猪出没注意の看板が立ってました。
この日はあじさいが綺麗でした。
出丸跡。
かつて存在した明智荘西部を見渡せます。
破城の痕跡。
城をわざと壊して再び城が壊されないようにすることを破城といいます。
詳しくことは分かりませんが、当時の遺構が数多く残ってて石垣好きの方は楽しめることでしょう。
大手枡形。
攻めてきた敵の勢いを鈍らせるために設けられた正方形の平地。
本丸へ。
説明の看板。
現地でもらった資料によると、1537年(天文6年)に斎藤道三の養子・齋藤妙春(正義)が鳥峰城を築城。
1565年(永禄8年)に織田信長の家臣・森可成が金山城と改称。
1570年(元亀元年)森長可が城主に。
1582年(天正10年)森蘭丸が城主となるものの、6月に本能寺の変で死去し、長可が再び城主。
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いで長可が死去。忠政が城主。
1600年(慶長5年)忠政が川中島(長野)へ移り、犬山城主の石川光吉が城主。
1601年(慶長6年)頃 城が破却。
蘭丸は一瞬、金山城の城主だったようです。
本丸からの眺めが綺麗でした。
木曽川を挟んで南側は兼山。
材木の運搬などで賑わっていたそうです。
北側は八百津町。
美しき田園風景。
織田信長の旧臣・太田牛一が完成させた信長の一代記「信長公記」
森蘭丸は13歳の時から織田信長の小姓となります。
1579年(天正7年)4月18日に蘭丸の記述がありました。
四月十八日、塩河長満に銀子百枚を贈った。使者は森長定(蘭丸)、福使は中西権兵衛。塩河は「過分の賜り物で誠にありがたいこと」と感激した。
1582年(天正10年)は本能寺の変。
信長もお小姓衆も、その場かぎりの喧嘩を下々の者たちがしているのだと思ったのだが、全くそうではなかった。明智勢は鬨の声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。信長が「さては謀反だな、誰のしわざか」と問いただすと、森長定(蘭丸)が「明智の軍勢と見受けます」と答えた。信長は「やむをえぬ」と一言。
信長の最後まで近くに付き従っていた蘭丸。
大河ドラマ「どうする家康」では「森乱」と表記されています。
昔の書物では「乱」と記されていたようです。
そろそろドラマの中に登場してくるのでは。
公式サイトの写真を見ると美少年。
森乱の使者としての活躍、本能寺の変がどう描かれるのか楽しみです。
森乱に興味を持たれた方、山城好きの方はぜひ美濃金山城跡へ。