「板垣死すとも自由は死せず」
岐阜市民なら誰もが見たことがあるであろう板垣退助の像。
岐阜公園の中にある「板垣退助遭難の地」
1882年(明治15年)4月6日、金華山の麓にある神道中教院で自由党の大懇親会が催されました。
板垣は演説を行い、夕方退出しようと玄関に出たところ暴漢に刃物で襲われました。
命に別状はなかったものの、全治2週間の傷を負いました。
この時に板垣が発した言葉が「板垣死すとも自由は死ぜず」という。
国立古文書館アジア歴史資料センターのホームページを見ると、当時の警察の上申書が残っています。
それによると「吾死スルトモ自由ハ死セン」と記述されています。
この言葉を周りにいた側近が脚色して「板垣死すとも自由は死せず」になったのでは。
説明の看板。
童門冬二さんの「川上貞奴」を読みました。
明治時代は壮士と呼ばれる政治活動家が発生。
演説会での歌、芝居の中で世相を風刺、政府攻撃を行いました。
当時、壮士芝居で活躍していたのが“おっぺけぺ節”の川上音二郎。
本の中に『板垣君遭難実記』の演目についての記述がありました。
例えば板垣退助と、警官との格闘場面などは、本気になって役者たちが殴り合い、投げ合った。また、警官の迫真の演技に、小屋の主が勘違いして、また川上の芝居が忌諱に触れて、「停止!」と制止されたものと思い、後から、いっしょになって駆け出してくる、というような一幕もあった。『板垣君遭難実記』で、瀕死の板垣が叫ぶ、「板垣死すとも自由は死せず」という台詞は、再び東京市中に蔓延した。
当時はテレビも映画もありません。
演劇が娯楽の中心だったのでしょう。
川上音二郎の芝居に観客が熱狂。
「板垣死すとも自由は死せず」は明治時代の流行語とも言えます。
令和の現代にも残る名フレーズですね。
壮士芝居に惹かれた貞奴は、1894年(明治27年)に音二郎と結婚します。
後に貞奴は川上座の舞台に出演することになり、日本の女優第1号となりました。
当時の演劇は女性の役も男性が演じてました。
貞奴の女優デビューの舞台はアメリカ。
演劇界に革命をもたらします。