大河ドラマ「麒麟がくる」でおなじみの明智光秀。
通説では天正10(1582)年に、本能寺を変を起こすも、山崎の合戦で秀吉に敗れ討たれます。
しかし、山崎の合戦で討たれたのは影武者・荒木行信で、光秀は荒深小五郎と名乗り、中洞で暮らし、徳川家康の要請で関ヶ原の合戦に向かう途中に増水した藪川(根尾川)で流されて亡くなったと伝えられます。
歴史研究家・川口素生氏の著書「明智光秀は生きていた!」の中に以下の記述がありました。
また、美濃の地誌(地理書)『美濃誌』には、やはり山崎の戦いの敗戦後、家臣・荒木山城守が影武者を務めて自刃した。後、美濃山県郡中洞(岐阜県山県市)に落ち延びた本物の光秀は、自分の身代わりになって落命した荒木山城守にちなんで荒深又五郎(小五郎)と名乗ったと記されている。
山県市中洞地区の林の中には、桔梗塚(明智光秀の墓)があります。
光秀の母が産湯の水を汲んだという井戸。
12月6日には、白山神社で供養祭が営まれました。
供養祭は毎年4月第2日曜と12月の第1日曜。
荒深一族が集まり、祈りを捧げました。
光秀の肖像と位牌。
桔梗塚には、大河ドラマ「麒麟がくる」で帰蝶を演じる川口春奈さんも訪れました。
5月18日に「鶴瓶の家族に乾杯」放送後は、これまでにない多くの方が参拝されたそうです。
(※絵馬の現物は普段は阿弥陀堂で保管されてます)
桔梗塚は関市にあるモネの池に向かう道の途中にあります。
桔梗塚の近くを流れる武儀川には行徳岩があります。
光秀の母が懐妊していた時にこの岩に立って行水し、「私の産む子が男であったら、仮令三日でもよいから立派な男子を、もし女であったら天下一の美女を御さずけ下さい」と祈ったと伝えられます。
行徳岩の近くには、光秀の義弟・明智孫十郎直径のお墓があります。
孫十郎は本能寺の変の時に、織田信忠を攻め討ち死にしたと伝えられます。
「麒麟がくる」の放送はこの記事を書いている時点で残り9回。
将軍・義昭と信長のはざまで揺れる光秀。
このあと、どのようなクライマックスを迎えるのか楽しみです。
これまでの通説とは違う新たな光秀が描かれるかもしれません。