『古地図で楽しむ岐阜ー美濃・飛騨』を読みました。
その中のコラムに「今も残る戦争の傷跡」というコラムがありました。
岐阜市の戦争遺跡として、大日本帝国陸軍の歩兵第六十八連隊の兵営、練兵所と陸軍病院が紹介されてます。
日清・日露戦争の頃、連隊が遠隔にあって慰問もできず、親子の別れもなしに戦死していった経緯から、兵営の誘致がおこり、1908年(明治41年)、現在の岐阜市長森に設営、翌年には西隣に岐阜衛戍病院(昭和に陸軍病院と改称)が創設された。以後、シベリア出兵や日中戦争ではここから多くの兵士が出征した。
本には当時の地図も掲載されています。
岐阜市立長森中学校には、現在も史蹟が残っているということで実際に足を運んでみました。
中学校の校舎の西側に門がありました。
道路からも見えます。
明治時代らしい赤レンガの門。
説明の看板もありました。
長森中学校の近くにある「岐阜県総合医療センター」は元々、兵士を守る病院として明治42年に創設された「岐阜衛戍(えいじゅ)病院」
赤レンガの門は倒壊の恐れがあったものの、自治会や病院等の関係者の尽力で修復され、現在の場所に移設されました。
学校の外からは見えませんが「陸軍」と刻まれた石碑も設置されたようです。
長森中学校の東隣にある野一色公園には、大日本帝国陸軍の歩兵第六十八連隊の史蹟碑が建てられてます。
2021年は終戦から76年。
当時のことを語れる方も少なくなってきました。
1945年(昭和20年)8月に広島と長崎に原子爆弾を投下されたことは知っていても、同じ1945年の7月9日の午前11時半ごろ、岐阜市上空に爆撃機B29が130機現われ、約1万5000発の焼夷弾が投下された「岐阜空襲」を知っている方はどれくらいいるでしょうか。
岐阜市街地の多くが焼け尽くされました。
岐阜でも戦争で大きな被害があったことを忘れないためにも「陸軍病院通用門」が形として残っていることは大変貴重。