1615年(元和元年)、大阪夏の陣からの帰りに岐阜に滞在した徳川家康・秀忠父子は長良川の鵜飼を観覧したと伝えられます。
家康は鵜飼を褒めたたえ、鵜飼を保護し、将軍家への鮎鮓(あゆずし)の献上が始まりました。
山川出版社の「岐阜県の歴史」の中に、鮎鮓に関する記述がありました。
ところで役鮎は、御鮨屋(のち御鮨所と改称)である岐阜東材木町の河崎喜右衛門家によって鮨に加工された、御鮨屋は、寛文6(1666)年から河崎善太郎家を加えて二軒となり、また明暦2(1656)年には古屋敷に移され、屋敷地の年貢(古屋敷は年貢賦課地)が免除されたほか、切米や御鮨製造用の薪炭代などが支給された。鮎鮨は、食べる時期によって醗酵を加減すつために塩や白米の量を変えて漬けこまれ、将軍家献上の鮎鮨は御鮨屋から加納の搬送元である問屋熊田家に送られた。そこから笠松・一宮・清洲・名古屋・熱田など東海道を優先的に宿継ぎすることを命じた老中奉書を掲げて、ほぼ五日間で江戸に送られた。
徳川家康にも愛された長良川鵜飼。
幕府は鵜飼を保護するため、他の漁法や堰の設置を制限または禁止。
宝暦2年(1752年)には、幕府は長良川水系全体にわたって鵜飼の妨害となるような一切の行為を禁止。
先日、笠松駅から周辺をお散歩しました。
「鮎鮓街道・笠松問屋跡」がありました。
岐阜市の「御鮨街道」の石碑は見たことがあるので、その続きです。
6月から9月の間、月に6回、江戸城に鮎鮓が届けられました。
なかなかのハイペース。
鮎鮓大好き徳川家。
笠松問屋の次は、一宮問屋へ。
当時はクーラーボックスもないので、一刻も早く届けられるよう必死だったのでしょうか。
一宮の後は清洲、名古屋、熱田へ鮎鮓のリレー。
愛知県にも問屋跡や石碑があれば見てみたい。
「鮎鮓の 桶かつぎ 受けわたし 人々は 江戸への道を ひたに走りき」
将軍家に鮎鮓を美味しく味わってもらうため、当時の人々は必死に走ってバトンをつないでいたのです。